コンテンツとともに振り返る私的2018年

 仕事納め/忘年会シーズンも終わりに向かいつつあり、いよいよ年越しを残すのみとなりましたが、皆さまにおかれましてはいかがお過ごしでしょうか。僕は今年かなり本厄にふさわしい一年だったので、いっぱい忘年し、今では2018年の素敵な出来事だけが記憶に残っています♡

 

今回はこういうTwitter以上はてなブログ以下ぐらいの雑な文章で、2018年に見聞・体験したコンテンツについて一言ずつぐらい言いながらサクッとまとめようと思います。

 

 

 

1月

『セッション』を観た

session.gaga.ne.jp

年明け早々、世間が格付けチェックに沸くなか観ていた。高みを目指すことの狂気の話。こういう「劣等感から来る狂気」みたいなモチーフが好きなのだと、のちに観る『累 -かさね- 』などで改めて実感することになります。あと黄〜茶ばんだ画面色彩が印象に残っています。

 

スプラトゥーン2」をプレイし始めた

このゲームに人生を左右されたと言っても過言ではない。それぐらい僕の人生に欠かせない作品となりました。自分は今まであまり何かにドハマりするみたいなことができずにいたのですが、ここで初めて他の何をも放棄するほどハマってしまい、「自分でも何かにハマるんだ」「自分はまだこんなにゲームにワクワクすることができたんだ」と、このゲームが思い知らせてくれました。

あとまだXに到達してない身で言うのもはばかられますが、何かを継続して上達していくときの精神の動き方・動かし方みたいなのを身を以て学んだような気がします。あと自分のメンタルのクソさも改めて実感しました。適切な劣等感とブレないメンタルが欲しい。

 

アニメ『ポプテピピック』放送開始

www.youtube.com

アニメの内容についてはまぁ特に言うことはないです。考察が流行ってましたね。そういえば僕は(特にアニメ・ゲーム文脈の)「考察」って言葉に、「ガバガバ論理のこじつけ」みたいな感覚を抱いてしまい、いまだに苦手なままです。かといって代わりに適切な言葉があるかと言われればわかりませんが。人文系的には「批評」とか言ってみたくもなるけど、そういうことじゃないしなぁ。

で、それはよくて、とにかくOP映像と曲がよかった。上に貼ったので万が一まだ聴いてなかったら音量上げて聴いてください。こういうのが作曲であって、俺は作曲をしたことがない。あとCD特典のMVにおける上坂すみれの表情が狂っててめちゃくちゃ良いです。

 

2月

アニメ『三ツ星カラーズ』をちゃんと観るようになる

mitsuboshi-anime.com

1月だった気もするけど1月もう3個コンテンツ挙げたから2月でいいや。僕はあまりにも起伏のない日常系アニメとか退屈なので観ないんですけど、ギャグセンスが自分に適合したものは観る傾向にあって、これとか『ゆるゆり』とかがそれに当たります。カラーズはめっちゃよかった記憶がある。「世界が尊すぎるのでカラーズを包む世界になりたい」とか言ってたと思います。

 

進撃の巨人』コラボ謎解きイベント「巨人潜む巨大樹の森からの脱出」に行った

realdgame.jp

「自分の好きなモチーフ」+「クソデカいモニター」+「クソデカいお気に入りBGM」=泣く。

ある程度までは理性的な人間なので、あるコンテンツを楽しむときは「ここはこういうふうに盛り上げてくるのね〜」「ここちょっとダサいな」みたいに一歩退いた目線でいろいろ考えるのですが、根が直情的な人間なので、僕がエモいと感じるものをちゃんとした演出でぶつけられると普通に弱いです。

いかに余計な理性的思考を挟ませず感情のストレートを投げるか、どうそのコンテンツを演出で飾るのか、というのは来年以降の個人的な課題だったりします。大言壮語。

 

3月

わかばシューターと僕」シリーズをなんとなく眺めていた

www.nicovideo.jp

3月9日のニンテンドーダイレクトでスプラトゥーン2ver3.0の告知があって( 

スプラトゥーン2 [Nintendo Direct 2018.3.9] - YouTube )、ステージも1時代のが復活するし、特にBGM好きとしては「この告知のBGMいいな〜」って思って聴いてたのが1時代のバンドABXYの曲だということを知り、イカ1時代のことをなんとなく知りたい思いに駆られたわけです。そこで、帰省中だったこともあり、寮の後輩の知り合いが上げてる1時代の実況だということで、ぼーっとこのシリーズを眺めていました。前回までのあらすじもハイセンスだし、うまい人のプレイは観てるだけで面白い。

このときはまさかこの実況主さんと寮の後輩を含むチーム「こちら偏差値Xパワー9999.9」がスプラトゥーン甲子園関東大会Day1準優勝を成し遂げるとは知る由もなかったのであった……

 

「NieR: Automata」をプレイした

www.jp.square-enix.com

黒くて綺麗なゲームでした。美術設定もBGMも美しく、廃墟ちょっと好きなだけの僕でもめっちゃこの世界良いなと思ったので、廃墟ガッツリ好きな人間にはきっとたまらないでしょう。
BGM好きとして好きな音楽を一曲だけ挙げておくと、こちら

NieR Automata 複製サレタ街 - YouTube

です。このBGMが流れるのが僕の趣味にピッタリ合う場所で、音楽も相乗効果でめちゃめちゃ良く感じたのが記憶に刻まれています。

人形〈オートマタ〉にすぎないのに、生に意味とか理由とかを求めて、人間以上に人間臭く壊れていく様子が特に印象に残っています。あとラストですよね、ラスト。

 

4月

amazarashiを聴いていた

www.youtube.com

3月のニーアプレイを承けて、ニーアの世界観とコラボしてamazarashiが一曲作ってるという情報をゲット。昔amazarashi多少聴いてたなぁと懐かしみつつ、上の曲を聴いたところからしばらくamazarashi漁りをしていた。

「スピードと摩擦」

amazarashi 『スピードと摩擦』“Speed and Friction” |「乱歩奇譚 Game of Laplace」OP曲 - YouTube

「空っぽの空に潰される」

amazarashi 『空っぽの空に潰される』 - YouTube

とか好きです。

これは実はのちの伏線になっていて(?)、8月のヒロアカ映画の主題歌(「ロングホープ・フィリア」)作詞作曲がamazarashiの秋田ひろむ氏なんですよね。「ロングホープ…」にも顕著ですが、amazarashiは「絶望の底で仄かに一筋光る希望」みたいなモチーフをうたうのが上手だなぁという印象です。すき。

 

リズと青い鳥』を観た

liz-bluebird.com

寮の人々と観に行ったんですが、上映終わってすぐ隣の後輩に「めっちゃよかったね、なんか額縁に入れて部屋の片隅に飾っておきたくなるような映画だった」と言った記憶があるのですが、それはあんまり間違ってない感想だった(?)ことが後々明らかになります。

監督のインタビューが公式サイトに載ってるのですが、

山田尚子監督インタビュー | 『リズと青い鳥』公式サイト

監督本人も「まるでガラス越しに彼女たちをのぞいているような、ふれると消えてなくなってしまいそうな脆さや儚さを感じる色味を大切にしました。」と言っているとおり、ガラス越しに覗いている印象を与えるように光の加減を調整しているらしい(どこかにちゃんとしたソースがあった気がするが手元にないしブログだし許してほしい)。場所設定的にも、「学校」という、外部者が立ち入れない箱庭で大半が閉じていたり。徹底してあれは観客である我々を寄せつけない、画面の向こう側での二人だけの関係の描写だったわけです。

後に僕は『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』というアニメを観ることになったのですが、その関係で後輩に「観察者の解釈を拒否するところに百合がある」という百合の本質(の一側面にすぎないとは思いますが)をインストールされました。その切り口から振り返って考えると、まさに『リズと青い鳥』は、演出ぐるみでよく完成された百合なのだなぁと、年の瀬になって改めて思うし、繰り返しになりますが、「手の届かないそれをたまに眺めたい」みたいな僕の最初抱いた感想もそんなに間違ってなかったなぁ、などと思っています。

 

5月

ペルソナ5」をプレイした

persona5.jp

 5月はだいたいこれに費やしました(といっても僕は直接やらず、プレイする後輩をずっと眺めていただけですが)。ストーリー・演出・デザイン・音楽などなど、どれをとってもめっちゃ名作だったので、気合を入れて13000字ネタバレ含ブログとか書いたりしました。

thumb-etudier.hatenablog.com

 

6月

『彼方のアストラ』を読んだ

shonenjumpplus.com

綺麗にまとまったSFミステリ。僕が伏線回収が大好きなことを改めて実感させてくれました。5巻しかないので軽い気持ちで人にオススメできるのもgood。かなりみんな読んでほしい。

あとこの作者の前作『SKET DANCE』も思春期にちょうど読んでたんですけど、それをまさに思い出させる(ちょっとクサめな)ギャグセンスやコメディとシリアスのバランスがこの『彼方のアストラ』にもあって、懐かしく思いながら読んでいました。

 

スプラトゥーン2 オクト・エキスパンション」をプレイした

www.nintendo.co.jp

スプラトゥーン2」というゲームを使った別の遊びを提供したり、半オープンワールド的なシステムにすることで「俺はこのルートでいった」「僕はこっちから行ったなぁ」なんていうゲームを通じた会話を発生させたり、全体的にアホくさいテンションの中にもきっちり芯のあるテーマとシリアスさを一貫させたり…、

ちょうど打ちひしがれていた時期(お察し)だったのもあり、なんというか任天堂イズムを真正面から喰らった感覚があって、コンテンツ自体はもちろん大いに楽しみましたが、何か様々な思いの去来する印象深い作品となりました。

 

7月

「DDLC」をプレイした

ddlc.moe

構造はもちろんかなり面白いなと思ったのですが、何か倫理的に反省させられたかといえばそうでもない。というのも、僕は「ゲーム内での僕の選択はあくまでゲーム内という無限遠の世界における選択なのだから、現実のこの僕の選択とは一切関わりなく、僕にはその選択によって生じたいかなる不幸にも責任がない」と考えてしまうからです。僕自身がこういう人間な以上、ゲームプレイを通じて何らかの反省をプレイヤーに行わせる、みたいなことはなかなか難しいなと思ったりします(かなり雑感)。

 

ニンジャバットマン』を観た

wwws.warnerbros.co.jp

話をきちんと理解させながら、圧倒的な密度とテンポで観客を巻き込み、理屈を置き去り勢いで謎の感動を発生させる。僕の大好きな構造がこの映画に詰まっています。

そもそもこの映画の脚本の人(中島かずき氏)は『キルラキル

TVアニメ『キルラキル KILL la KILL』オフィシャルサイト

や『クレヨンしんちゃん ガチンコ! 逆襲のロボとーちゃん』の脚本家でもあり、この二作品も上に書いたような勢いを持っていて(めっちゃオススメです)、それにすっかり惚れ込んでこの『ニンジャバットマン』も観に行こうと思い立ち、行ってみたら期待通りのものだった、というわけでした。

 

8月

カメラを止めるな!』を観た

kametome.net

まだネタバレしない方がいいよね? なんか謎解きイベントの感想みたいだな。

というわけで月並みな感想しか書けませんが、構造がよかったです。そしてそれがそのまま我々の人生に対するメッセージにもなっているというのが良ポイント。

 

映画『僕のヒーローアカデミア ─2人の英雄─』を観た

heroaca-movie.com

観たあとの感想メモによると、「デクの腕プロテクタ」について、

→それは「オールマイト・デヴィット・メリッサ・デクと脈々と受け継がれてきたものの結晶」であり、それが悪を打ち破るキーとなるのはアツい

→かつプロテクタは「記憶の中の偉大なるオールマイトへの依存」でもあり、それが最後に壊れて終わることは、オールマイトへの悪い意味での依存を断ち、デクが次世代を作っていくことの象徴になっている

みたいなことが書いてありました。うん。思い出しました。

こういう「アイテムに意味を表象させる」描き方も僕の好きなもののひとつです。

 

9月

ペンギン・ハイウェイ』を観た

penguin-highway.com

想像力が少しずつ現実を捻じ曲げていく、みたいな映像表現とそれに伴う展開をアニメーションに期待しているところがあって、

(参考:

『リトルウィッチアカデミア』第2クールノンクレジットED - YouTube )

この映画はまさにそういうものだったと思います。あとお話自体も、「結局無から生まれて無に還る人生だけど、その間の過程にこそ価値がある」みたいなメッセージ性があったような記憶があり、ストーリー・映像両面でとても好きでした。SFの非現実性由来の視聴後の浮遊感みたいなのもよかった。

 

累 -かさね-』の漫画を読み、映画を観た

kasane-movie.jp

原作漫画は、まるで舞台を一本観たかのような、美への執着と欲望と劣等感の物語でした。映画は、2時間という尺の都合で原作の3巻ぐらいまでをうまく翻案する形でまとめられたものだったのですが、肉体をもった演劇へと原作をまさに「昇華」したと言えるような、原作のエッセンスをしっかりと映像にした作品でした。特に肉体をもった人間が演じる映像作品となったぶん、「劣等感と欲望から来る人間の狂気」が色濃く表現されていて、ものづくりに関わり劣等感に苛まれる人間の端くれとして強くモチベートされた気分になりました。というわけで1月の伏線を回収したね。

 

10月

sasakure.UKの曲を聴いていた

www.nicovideo.jp


「0/1 WARS」っていう謎解きゲームイベントをこの時期作っていたんですが、

このタイトル、「サイバーものといえば bit とかそういうワード入れたいよなぁ」→「そういえば16bit戦争って曲あったな」→「bitって0か1かだし、 0/1 と 戦争〈ウォーズ〉くっつけたら……『ゼロワンウォーズ』……語感が良い……」という経緯で僕の脳内連想ゲームで生まれたものなのです。

そしてタイトルを考えるうえで経由したご縁もあって、「ぼくらの16bit戦争」とか、その続編の「ぼくらの16bitエンズ・トリガー」

sasakure.UK - Our 16bit endZ Trigger feat. GUMI / ぼくらの16bitエンズ・トリガー - YouTube

とか、ここらへんっぽい雰囲気のゲームにしたいと思って、聴き込んでいました。

結局BGMは僕の手癖が出て全然sasakureサウンドっぽくはなってませんが、8bit音を意識して多く入れるとか、あと曲の展開とか、大いに参考にさせていただきました。もうちょいぶっちゃけると、sasakure氏がUndertaleのBGMをアレンジしたこのアルバム 

sasakure.UK - UNIQTRAP (Undertale Remix Album) [Preview] - YouTube

の6曲目「ASGORE」が、ゼロワンウォーズのボス戦の元ネタです。

 

11月

『リック・アンド・モーティ』を観ていた

www.netflix.com

ここらへん、前述の「0/1 WARS」制作であんまり暇もなかったし記憶もないのですが、とりあえず挙げるとしたらこの大問題アニメかなと思います。エログロナンセンスなんでもござれの、勢いで(必ずしも勢いだけでもないのがまた難しいんですが)やっていくSFコメディで、あんまり声を大にしてオススメできないんですが、面白いです。

そういえばナンセンスなものの好き嫌いってどう分かれるんでしょうかね。僕にとって面白いナンセンスのセンスは、他人にとっては本当に何も意味をなさない文字通りのナンセンスであることも往々にしてあり。「面白い」ってなんだろう。難しいですね。このブログでは触れませんが、この直後のM-1グランプリでもそういうことを改めて思ったりしました。トム・ブラウンとはなんだったのか。。

 

12月

『SPEC』を観た(特別ドラマ『SPEC 天』まで)

www.tbs.co.jp

10月・11月と制作に追われ(というのは半分本気で半分言い訳なのですが)、あんまりコンテンツをインプットしておらず、その反省として摂取し始めたコンテンツ第一弾。このドラマのメイン演出家である堤幸彦氏の過去演出担当作に『TRICK』というのがあり、

ドラマシリーズ『トリック』

このドラマ第三シリーズを9歳のときに初めて観て、僕の小ボケのセンスコメディとシリアスのバランスみたいなものの形成がこいつに大きく影響されたというたいへん思い出深い作品なのですが、まさにそのセンスが(『SPEC』においては思ったよりシリアスに軸足が置かれていたとはいえ)そっくりそのまま再び表れていて、懐かしむとともに「これだよな〜」と言いながら楽しく観ることができました。

また今回の学びとして、そういう小ボケ・コメディタッチがあるからこそ、シリアス部分の設定のガバガバさもなんとなく受け入れやすくなる、というコメディとシリアスの相乗効果みたいなのがあると気づきました。実際まぁ捜査とかはガバなんですけど、そこではなくて能力バトルものの設定の部分を楽しむように構造的にも促されていて、そういう楽しみ方ができる人ならめっちゃ面白く観れると思います。オススメ。

 

約束のネバーランド』を読み始めた

sp.shonenjump.com

想像以上にガッツリ戦略バトルをやっていて、これヤングジャンプとかと掲載媒体間違ってない?と思ったのがファーストインプレッション。しっかり読み応えがあります。あと個人的な評価ポイントとして、「かごめかごめ」とか「花いちもんめ」とか、子供のごっこ遊びってなんというか成立過程がちょっとホラーなイメージがあるじゃないですか(僕だけかもしれない)、で、この作品は「かくれんぼ」とか「鬼ごっこ」とかを、そういうホラーチックなイメージを増幅させて描くことに成功しているような感じがして、好きです。

 

少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を一気に観た

revuestarlight.com

一回放送内で二幕構成になってる変則構成とか、後半が勢いのままで謎の異世界での謎のバトルだったりとか、舞台ごとに用意されたバラエティ豊かな音楽とか、丁寧にステップを踏んだ様々なかたちの人間関係の掘り下げとか、ふたかおのまさに百合と呼べる関係とか(ここでの百合の定義は4月『リズと青い鳥』の部分参照)、12話1クール内でのしっかり予想を裏切る「転」の展開とか、劇中劇への同化とか、メタ構造とか、あるアイテムモチーフの繰り返しとか。

なんかうまく一言でまとめる能力と時間と体力がないので今は箇条書きになってしまっていますが、僕の好きな要素が散りばめられた作品だったと思います。きっとどこかで振り返ることになるはず。かなり面白かったです(雑)。

 

ONE OUTS』を読み始めた

www.cmoa.jp

LIAR GAME』で知られる甲斐谷忍氏の、ライアーゲーム連載前の野球マンガ。……なはずなんですが、なぜか「野球版ライアーゲーム」です。何を言っているかわからないと思いますが、ピッチャーとバッターの心理戦をはじめ、ルール内外の裏のかきあい、球場ぐるみの不正行為など、「頼むからマジメに野球してくれや」と言いたくなるような、野球にまつわる心理戦・読み合いをうまく誇張的に漫画に仕立て上げている、という感じです。特に4巻はめちゃくちゃぶっ飛んでるので、そこまでかなり胡散臭く感じるかもしれませんが、4巻までは読んでほしいな、と思います。

 

おわりに

結局僕がコンテンツを振り返ってその好きだったポイントを抽出する備忘録的なものにしかならなかった気がする。ここまで読んでくれた方がいらっしゃったらもうそれは僕のマブダチと言っても過言ではないと思います。いいえ自意識過剰。

まぁ何かひとつでもここに挙げた中からあなたの心に残るものができて、さらにはあなたに手を出していただければ、これほど嬉しいことはありません。ぜひに。

 

今年は本当に、決してよいことばかりではありませんでしたが、世界には面白いコンテンツ──それはここに挙げたものばかりではなく、人々との出会いや会話も含めて──がたくさんあって、それに生かされていたような気がします。ありがとうございました。

来年もよろしくお願いします。良いお年を。

 

おまけ

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【ネタバレ含】ペルソナ5プレイ感想──ペルソナ5における物語の「強度」

※この記事は「ペルソナ5」のネタバレを大いに含みます。一周プレイしていない方は読まないことを強く強く推奨いたします。

0. まえがき

 ペルソナ5を一周クリアした。(といっても結局プレイしてる人間の横にくっついてずっと見てるだけだったのだが)
結論から言う。めちゃくちゃ面白かった。
 特に、終わった直後のラフな反応として、物語が心に刺さった感覚があった。
 その超級のボリューム(ひとつのRPGに90時間弱かけたのはおそらくこれが初めてである)と大きな感動を前に、これはぜひとも面白さを分析するような感想文を書き残しておくべきだと思われた。

 何より物語に感動したという直観をもとに、物語について分析する文章を書こうと話を振り返ってみたのだが、話を要素に還元してしまうと結局は「仲間とともに悪人を改心させる勧善懲悪もの」とか「大人の理不尽に振り回される少年少女の反逆もの」とかいった紋切り型に収まってしまう。もちろん、物語が紋切り型の要素から成っているというのは一面では正しい。しかしあの物語が、考えてみたら紋切り型でクサい話でした、と言って済ませられはしない「強度」を自分に与えたことは確かである。あの物語に対する感動を語るには、紋切り型の要素に還元したうえで、それらが物語以外の要素とどのように絡みついて創発的に物語の強度を生み出しているかを考えなければならない、ということに思い至ったわけである。そしてそれを書き記しておくことは、感動的物語のあるリアル謎解きゲーム一般の説教臭さに悩む自分に何らかのヒントを与えてくれるだろうとも思われた。

 以下の文章は、そうした分析意識の向けかえのもとに書かれたものである。結局は要素の列挙に落ち着いてしまうのだが、直接的なストーリー以外の部分にも目を向け、それらがいかに物語に「強度」を与えたと自分が考えるか、ということが少しでも伝わるように言葉を選んだつもりである。「これは語るうえで外せないだろう」「そのりくつはおかしい」などの批判はもちろん随時受けつけているので、何かあればコメントしていただきたい。

1. 「ペルソナ5」という世界

 まずは物語がそこで展開するところの「ペルソナ5世界」について語っておく必要がある。ここでは、「ペルソナ5世界」が、

(1.1) ロケーションや、そこで動く人間への理解可能性、そして想像しやすい「イセカイ」「パレス」設定から、「我々のこの現実のどこかで密かに実現していそう」=「そこにありそう」だと我々に思わせる説得力を持っていること

(1.2) デザイン・BGM・モチーフなど一貫してスタイリッシュな提示のされ方によって我々にとって魅力的なものであること

を説明し、そのことによって我々はより深く物語を経験するのだということを主張したい。

1.1 「そこにありそう」な世界

1.1.1 ロケーション

 まずはこのゲームの舞台が現実の東京であることに留意すべきである。四軒茶屋の路地裏、渋谷のハチ公改札、銀座線から渋谷マークシティへの連絡通路、新宿、秋葉原などが、もちろん改変はされども雰囲気そのままに再現されており(特に感心したのは渋谷のハチ公改札を抜けて東横線の方に歩いていく方面にあるジューススタンドが再現され、そこで毎週日曜日に人間パラメータを上昇させる青汁が販売されていることだ)、そこでキャラクターとの様々な出会いがある。個人的には今でもハチ公改札の109へ上る階段前に「人間観察中」の祐介を探してしまうほどで、この現実の東京が再現されているということによって、我々のこの現実において「ペルソナ5世界」を重ねて見てしまうほどにあの世界に慣れ親しむことができるのである。

1.1.2 人間

 この分析にとって欠かせない最大級の要素として、数多登場するキャラクターたちの存在がある。彼らはただの記号として存在する以上に、皆それぞれに個性を持ち、それぞれに現実にあり得る事情を抱え(ているように設計され)、それゆえに我々が理解しやすい、現実味のある人間となっている。もちろんキャラクターの立場によってその事情は異なるので、以下では一定の分類のもとにキャラクターたちを見ていくことにしたい。

  • a. 怪盗団メンバー

 彼らは理不尽な大人たちに振り回され、その中で反逆の意志を固め、ペルソナの力を目覚めさせる。ややもすれば飽きてクサい展開であるが、そこは各キャラの外見上の個性、出会い方のバリエーション、覚醒シーンのカッコよさ、そして現実の我々が理不尽に振り回された経験からくる彼らへの共感で、一回一回がアツいシーンとなっているだろう。そして怪盗団加入後は一員として他のメンバーと様々なやりとりがなされるわけだが、声優の演技・LINE上でのテキストのクセ・細かい言動によって、各キャラに対する愛着がしっかりと深められる(以上の点について、春ちゃんはモルガナ離反イベントの過程で出会うことで出会いの個性が演出されていたりするが、加入後もあまりキャラとして個性を立てる機会に恵まれていないような感じがあり、かわいそうである。社長令嬢キャラをブン回すところとか見てみたかった気もする)

 これは怪盗団メンバーに限らない話だが、各キャラに対して理解可能性と愛着を深める要素が担保されていることが、このゲームにおいて、そして物語の経験において決定的に重要なことだと思われるし、なかでも怪盗団メンバーが共感と愛着を抱きやすい魅力的なキャラクターに仕上げられていることが何より重要なことである。

  • b. しつこいほどのコープたち

 いくつかの関係を除き、コープたちとの人間関係を深めるためには、彼らが抱えている問題を解決する必要が出てくる(プレイ中は「メメントスチャレンジ」と呼んでいた)。彼らは怪盗団メンバーとは違って自身が直接的に反逆の意志を示すわけではないが、そのぶん彼らへの共感を深める要素として、彼らが皆それぞれ「現代社会にあり得る理不尽」に巻き込まれていることが挙げられる。たとえば「医療ミスをなすりつけられる」・「新興宗教団体に巻き込まれる」・「親がモンスターペアレント」・「本意ではないアイドル的な売り出し方をされる」などなど。ひとつひとつは単に用意された設定という感じがあるが、ここまでの人数分もはやしつこいほど、政治家崩れからゲームキッズまで個性豊かなキャラとエピソードが用意され、そして皆が皆、問題解決後に怪盗団の協力者になるという仲間を増やすアツさを提供してくれるとなれば、彼らに愛着が湧きもするだろう。

 また、うち数人は主人公の彼女にできるという要素にも触れておくべきだろう。ありふれたギャルゲでも個性があって見た目が可愛ければなんか嬉しいのである(その点で言うと一子は年上サバサバ系のポジションを武見先生に先に握られておりやや不憫である。そもそも自分の好みではなかった

あとこの場を借りて、貞代先生、毎日毎日自宅に呼んでコーヒーを淹れるタダ働きをさせて本当に申し訳ありませんでした。

  • c. 同情できそうでできない、少し同情できる敵

 このゲームに欠かせないのが、パレスを持つ敵たちの存在だが、特筆すべきなのは、彼らにもごくわずかに同情の余地が残されていることである。たとえば鴨志田ならば「自分で築き上げた地位を利用して何が悪いのか」「人々が勝手に俺に期待して俺を祭り上げてきたんだ」という言い訳、斑目ならば「芸術の価値などアートワールドの中で権力によって決められる不確かなものだ」という言い訳、獅童においてすらも「この沈みゆく国を支えられるのは自分しかいない」という信念など、敵たちには、純粋に悪と言って切り捨てられない、かといってそれを言い訳にすることは許されない、わずかな引っ掛かりが残されている。そこに彼らへの理解可能性と、彼らが起こした罪の現実感がある。

  • d. 無思考の大衆

 そして最後の敵は、怪盗団のように世間に波風を立てる者を無視し、自分の頭で考えることをしない「大衆」であった。そこから生まれた神と決戦に至るという点に目をつぶれば、無思考な大衆、そして無思考で済ませようとする一人ひとりの心の甘えが最後の敵であるというのは、現代社会にあり得る闇を描いてきたこのゲームの最後を飾るにまったくふさわしいものであるだろう。極めつけにこの敵を設定するのは、「ペルソナ5世界」とその物語に強く現実感を与えている。

1.2 スタイリッシュな提示

1.2.1 デザイン・UI・UX

 画面がいちいちカッコいい。赤を基調とし、不揃いな文字がまさに怪盗的なダークなカッコよさを引き立てる基本デザインがすでに独特でカッコいいのである。デザインについてはあまり多くを語れないが、パッと見て何のゲームかがわかる画面が作れているというのが、デザインの固有性と強さ、世界観への寄与を物語っているだろう。

 また、各ロード場面においてもオシャレな演出によってストレスを軽減するUX上の工夫がなされている点も触れておくべきである。たとえば、設定画面で項目を選択して下の階層に移るときに主人公の一枚絵が動くことや、同様に薬購入のときに武見先生の絵にモーションがあること、日付が変わるときに日付にナイフが突き立てられること、総攻撃で敵全滅後の各キャラ固有一枚絵、戦闘終了後主人公が走り出す、などなど。このような見た目上のディテールが、ストレスを軽減するとともに、ゲームプレイの魅力的な固有性を形作っている。

1.2.2 BGM

 BGMも当然、固有の世界をなす重要な一要素である。雰囲気が伝わるように、代表的な数曲を挙げておきたいと思う。
 まずは日常でよく聴くBGMから。

  • Beneath The Mask


[Persona 5 OST] 29 - Beneath the Mask


落ち着いてシブいベース・ドラムの上に、後ろで鳴っているエレキピアノがオシャレに響き、そしてペルソナ5内で一貫したこのボーカルが薄暗く、温かく、また力強さを感じさせる雰囲気を醸し出しているだろう。

  • Tokyo Daylight


[Persona 5] 37 - Tokyo Daylight

こちらも日常でよく聴くBGMであるが、しっとりとした上の曲とは異なり、コーラスとギターが軽快さを引き立てている。

 次は戦闘BGM。

  • Last Surprise


Persona 5 - Last Surprise OFFICIAL Lyrics

こんなオシャレな曲が通常戦闘BGMとして成立しているのがペルソナ5の固有性を最も物語っているのではないだろうか。怪盗団の鮮やかな犯行を思わせる、テーマにマッチした一曲である。

  • Blooming Villain


Persona 5 OST - Blooming Villain [Extended]

ボス戦。もちろんオシャレな曲だけではなく、しっかりとカッコいい曲も用意されている。派手さはないが、力強いギターとベース、王道なコード進行がボス戦にふさわしいアツさを感じさせる。どこかで読んだ受け売りだが、曲の1ループの展開が「会敵→戦略立て→交戦」というペルソナ5の戦闘システムを象徴しているという話がある。

 そして最後に紹介するのは、最も「ペルソナ5世界」を象徴していると自分が思う一曲である。

  • Life Will Change


Life Will Change ( With Lyrics ) - Persona 5 OST

プレイ済の各位にはおなじみ、予告状を出した後のパレス内で流れるBGM。怪盗団の意志の力強さ、「怪盗」というテーマから想像される鮮やかさ、カッコよさ、オシャレさがこの一曲に詰まっているといっても過言ではないだろう。

 余談だが、ゲーム中聴き慣れたBGMでも、キャラボイスや効果音などを抜きにして単体で集中して聴くと曲自体の良さを感じられるのでおすすめである。特にイヤホンで聴くことで低音のカッコよさが際立って聞こえるようになるだろう。

1.2.3 モチーフ
  • 怪盗
  • 神話(ヤルダバオトは言わずもがな、各ペルソナは神話や伝承を元ネタとしている)
  • 七つの大罪(正確には対応していないのだが、7つのパレスにはそれぞれ大罪の名前が冠されている(攻略時のトロフィー参照)。またヤルダバオト七つの大罪をモチーフにした特殊攻撃を仕掛けてくる)
  • タロット(各ペルソナ・各コープにアルカナというタロットカードの属性が割り振られている)
  • トランプ(ジョーカーというコードネームや、トランプではハートが表象する「聖杯」(授業中の質問コーナーで登場する知識である)がラスボスの第一形態である)

といった「中二病」的モチーフや、

といった学問的モチーフ(これらも言ってみれば「中二」的センスを持つ学問領域かもしれない)
がうまく結び合わされ、あのスタイリッシュな世界観の構築に寄与している。

2. ゲームという媒体における報酬としての物語

 物語の経験を語るに際して避けては通れないのが、その媒体である。この文章を書いているいまちょうどペルソナ5のアニメが毎週放送中なのだが、同じ物語をなぞっているはずなのにどうにもしっくりこない、盛り上がらないという感覚がある。そこでここでは、アニメを比較項として置くことで、「ゲームで物語を経験すること」の特徴を考えることにしたい。先取りして言えば、アニメとの違いとして際立つのは、操作の作業量と引き換えに発生する進捗への達成感である。そうした進捗報酬として、達成感とともに物語を受け取るからこそ、ゲームにおける物語は心に深く残るのではないか。

2.1 ゲームにおける作業

 深い批評を必要としないならばただ観るだけで、時間もゲームに比べればそれほど要しないアニメと違って、ゲームにはそもそも「ボタン操作」という作業が基本に存在する。その上に、特にペルソナ5においては、日常には一日一日何をして過ごすかという自己決定、場所の選択、主人公の移動、会話の返答の決定といった労力が、パレスにおいては諸アクションを含む主人公の移動、ザコ敵との煩わしくもある戦闘、仕掛けの攻略、第何形態まであるんだよと思わせるボス戦といった労力が必要となる。個人的におそらくアニメを観ていて感じたコレジャナイ感は、あれほど苦労した様々な攻略(たとえば祐介の説得やパレス攻略)がかなり短い時間で解決してしまったことによるあっけなさに由来するのではないかと考えられる。

2.2 報酬としての物語

 作業の先には、たとえば人間パラメータの上昇であったり、コープイベントであったりといった進捗があり、そしてその最大の報酬として物語の進行がある。そこに至るまでには、長大なパレス、多すぎるザコ敵との戦闘、やたら強いしバフ/デバフをサボると死ぬボス戦といった労力、そしてそもそも膨大な時間がかかっているのであり、そうして受け取る報酬としての物語は、達成感とともに経験される(というか、そうしないとやっていられないと脳が補正をかけている部分もあるのだろう)。もちろんそこで進行する話が面白くなければ元も子もなく、「これだけ苦労してこれかよ」と逆効果を生むだろうが、このゲームのように物語自体に面白さがあれば、一定のプラス効果をもたらすだろう(作業量とそれが生む達成感のバランスというのは人それぞれだが、個人的にはパレス攻略部分の作業量が達成感に見合っていない感覚があり、もう少し作業感を減らしてもよかったのではないかと思う。あと、獅童は何回変身を残しているんだやめろ

補論:コンピュータRPGとの媒体の差異から考えるリアル謎解きゲーム

 この文章を書く動機のひとつに、このゲームの物語経験について分析することで、リアル謎解きゲームに対する知見を深めるということがあったので、ここではついでに、コンピュータRPGとリアル謎解きゲームの媒体としての差異についても触れておきたい。

 まず、コンピュータRPGはアートワークによって一貫した想像の世界を創りやすいし、そこにゲームとして独特のシステム、独特のアクションを設定することで、その世界のまとまりがプレイしながらにして強化される。

 一方でリアル謎解きゲームはその想像の世界を現実にあるもので再現しなければならず、世界を創ることはコストもかかるし、クオリティもどこかで想像の世界から劣化してしまうだろう。しかしだからこそ、リアルイベントにおいてはその再現の努力が評価対象となる。また、想像の世界の再現だとしても、その世界が「現実に」再現されることが重要である。現実に我々の身体をもってその再現世界に我々が存在することは、ライブ感をもたらし、テレビゲーム越しには得難い熱狂を喚起するだろう。

 コンピュータRPGは一つの別世界を完成させられるが我々はそれに操作を通して干渉することしかできない。リアル謎解きゲームは別世界を再現することしかできないが我々はその再現世界に実際に存在することができる。こうした差異を一旦まとめることができる。

 こうした差異のうえで、特に感動的物語のあるリアル謎解きゲームについて考えよう。このゲームは通常ゲーム時間が60分以下で、あまり設定を詰め込むと時間内に消化できないというさらなる制約により、原作のあるコラボ謎解きでない限り細部の定まった別世界を完成させきることはより難しくなるし、展開するエピソードも単純なものとなり、1章で述べた「ありそうな世界を形作る」方向、あるいは3章でこれから述べる「物語そのものを面白くする」方向での物語経験の深さの強化が弱くなってしまう。こと「自分がその物語の中に入ってしまったような体験」を志向するリアル謎解きゲームにおいては、「そこにありそう」で参与したくなる世界を形作ることにまつわる難しさは致命的に働きうる。こうした困難に対処する仕掛けを施さず、リアルイベントのライブ感による熱狂のみに物語経験の深さの強化を任せ、登場人物あるいは神の声に何らかのメッセージを直接語らせれば、それがまともな強度を持たないまま説教臭くなってしまうことは必定である。

 ではこうした困難にもかかわらず、リアル謎解きゲームにおいて、何らかのメッセージを伝えられるほどに物語経験に深さを持たせたいとすれば、どのような対処手段が考えられるだろうか。

 まず、プレイヤーが追い込まれる苦境に、乗り越えたいと思わせる要素を設定することが考えられる。そのような乗り越えたい苦境が設定されているからこそ、乗り越えたときの感動が物語経験の強度を生む。その手段としては、ひとつには、ともに乗り越えたいと共感できる登場人物とその人物への愛着を生む仕掛けを設定するということが考えられる。あるいは、過去に例のあった変化球的な手段だが、その苦境は自分で招いてしまったものであることが明らかになるという物語構造を作り、反省とともに乗り越えたさを生み出すということも考えられる。

 また、物語自体の構造を謎解きに絡めて面白くすることも考えられる。物語構造のそもそもの面白さが、物語経験の強度を生むのである。

 そして最後に、メッセージ性を持たせたいとしたら、それを語るのは神の声ではなく、愛着と共感を持たせた登場人物であるべきであり、もっと言えば、誰かの口からということもなく、物語そのものがあるメッセージを示唆しているべきである。

 このあたりの議論は、「リアル謎解きゲーム」の中でも議論対象の範囲を非常に狭くとったうえにかなり雑駁なものであり、そもそもペルソナ5における物語を分析するという本論の趣旨から大きく外れてきているので、別の機会にさらに考えることにしたい。

3. 物語における工夫

 ここまで、

  • 1. 「そこにありそう」で魅力的な「ペルソナ5世界」
  • 2. ゲームという媒体の特徴

と、物語経験の強度を深める要素について述べてきた。しかし2.2の最後の方でも述べたとおり、物語そのものが面白くなければ元も子もない。実際このゲームの物語も、「ただ反逆が繰り返され、そのスケールが大きくなっていく」というものなら、アツさはあれど単調なもので終わっていただろう。しかしペルソナ5には、そのような単調さを回避する工夫が施されていたと思われる。その工夫について、時系列順に触れていきたい。

3.1 佐倉双葉というキャラクター

 これは自分が双葉推しだから書く節である鴨志田攻略においては、鴨志田は学校内でもその権力をふるい主人公たちに圧力をかけていた。斑目攻略においては、祐介に斑目が悪だということを信じさせるのに苦労した。最初の二人においては当人たちが巨悪であることを感じさせるだけの主人公たち側の苦境があったが、三人目の敵、金城の攻略は二人に比べて単調であったと思われる。そして双葉を一旦飛ばしてその次は奥村社長であるが、彼においてもまた、被害に遭っているのは新たに加入したての春だけであって、主人公たちに、最初二人のときのような苦境が強いられることはなく、攻略においてはやや単調であった印象が否めない。つまり、双葉のエピソードが無ければ、やや盛り上がりに欠ける二人の攻略が連続していたのである。だからこそ、双葉のエピソードによる単調さの回避は物語全体にとって大きな意味を持つものであると言える。

 では、双葉のエピソードがいかに物語に動きを与えたのか。ひとつには、これまでは主人公が周囲の悪に反逆するだけであり、ここでもメジエドをどう倒すかという展開が来ると見せかけておいて、実際に攻略するのはなんと佐倉家に住む人間であり、それも悪人を改心させるという話ではないという驚きのイレギュラーな展開であること。さらには、一色若葉、認知訶学といった物語上の重要な要素が明かされる盛り上がりの局面であること。この二つを満たす動きのある展開を、双葉というキャラクターを設定して、「惣治郎以外誰もいないはずの佐倉家に誰かいる」という真夏にふさわしい怪談仕立ての導入とともにここに配置するのは、ぜひとも触れておかなければならない物語の工夫である。

 そして、後の物語にとっても双葉の存在とこのエピソードが役立っていることがさらなる重要な点である。すなわち、惣治郎の過去、主人公を引き取ったこと、コープイベントにおける家族愛の話などが双葉の存在によって理由づけられ自然なものとなっているし、また、このエピソードが、後の明智を騙す展開の際に「パレス内に本人が入っても短時間なら問題がない」ことの根拠となっているのである。

 このように、佐倉双葉というキャラクターの存在は、ペルソナ5の物語に対して様々な貢献を果たしており、ひとつの「発明」と言えるだろう。

3.2 明智を騙す展開における伏線回収

 言わずもがな、ペルソナ5における最大の物語の工夫はこの部分だろう。ここを物語のクライマックスにするために、わざわざ逮捕後の尋問室からの回想という形式をとらせ(そのせいで冴さんには「どうなのおばさん」という汚名がつくことになったわけである(かわいそうだが、それにしても強制で尋問室の場面が挿入される回数は多すぎた気がする))主人公の記憶に穴を開け、「明智にはモルガナの声が聞こえている」という伏線を張り、「パレスから離れた場所は現実そっくりである(カモシダパレス侵入時)」、「パレス内の人間は本物の人間と区別がつかない(ニイジマパレスにおける客たち。あるいはカモシダパレスにおける鴨志田の愛人としての杏もその伏線か)」、「パレス内に本人が入っても短時間なら問題がない(フタバパレスにおける双葉)」など作戦の根拠をそれまでのパレス攻略に入れ込む、という大がかりな仕掛けが施されているわけである。主人公の帰還後、部屋にいる双葉に話しかけると作戦に関するさらなる説明が聞けるのもこだわりを感じる。

3.3 シドウパレス以後の展開

 それまでは特定個人を改心させる展開の連続だったのが、なんとラスボスは「無思考な大衆」、そして「その大衆ゆえに歪まされた偽の神」と、一気にスケールが大きくなるのだが、しかしその展開は、(神は置いておくにしても)まさにいま我々の現実に広がる大衆の倦怠感とリンクしており、現実感をもって無理なく理解できるし、それがラスボスだということに納得もいってしまう(まぁ日本国民の衆愚性が世界の破滅をもたらすとなれば外国的にはたまったものではないなとは思った。この物語の根幹にはほぼ外国が関わってこないが、変にそこに言及して話をより壮大にしても仕方ないだろう)。しかもこの大衆の敵性が「怪盗チャンネル」のアンケート欄で可視化され、「誰もその存在を信じなくなったとき人々の認知世界から怪盗団が消滅する」というラスト付近の展開は、SNS時代の時流をも活かした非常にうまい演出である。この演出のうまさとともに、「説得力のあるスケールの飛躍」が物語の最後に配置されているのは触れておくべき面白さであるといえるだろう。

3.4 最後のベルベットルーム

 主人公をめぐる「ゲーム」がネタばらしされるクライマックスの場面(終盤ずっとクライマックスみたいなものなのだが)だが、ここでも二つ面白いポイントが指摘できる。ひとつは「カロリーヌとジュスティーヌのギロチン合体」である。「ギロチンここでそう使うのか」という驚きと伏線回収的な面白さがある。もうひとつは、もうこれだけでもこのゲームを買う理由になるほどの超級のトリックだと思うのだが、「声優の死すら利用して、偽イゴールがラスボスであるという設定を作ったこと」である。ペルソナ4までイゴール役を務めた田の中勇氏が2010年に亡くなったことを受け、ペルソナ5ではイゴール役が交代した……と言われれば誰だって自然な流れだと思うだろう。ところが、これこそがペルソナ5における最大級のトリックの現場だったのである。つくづく見事だと思う。

4. まとめ

 これまで、ペルソナ5において、ややもすればクサい物語にいかに「強度」が与えられ、その経験における感動をもたらしたかについて長々と述べてきた。軽くパラフレーズしつつまとめて、本稿の結びとしたい。

 ペルソナ5における物語の「強度」とは、

  • 1. テーマ的にもロケーション的にも現代日本社会をうまく物語に落とし込み、あらゆる人間に理解可能性のある設定を与えて、「そこにありそう」な世界を徹底的に形作り、かつそれを独特のデザインやBGMによって魅力的に提示することで、プレイヤーの物語への共感可能性を非常に高めていること
  • 2. ゲームという媒体ゆえに自然発生的に、その膨大な作業量と引き換えに、物語の進行を達成感とともに報酬として受け取るという構造が成立していること
  • 3. 物語自体において叙述トリック・伏線回収・クライマックスポイントを随所に設けるという工夫によって、単調な反逆ものに陥るのを回避していること

の三点からなる、というのが本稿の主張である。

 また、当初の動機の一部であった「感動的物語のあるリアル謎解きゲーム一般の説教臭さ」については、補論にて述べたとおりである。媒体としての性質と時間/設定の量の制約により、共感可能性と物語自体の面白さという、物語に強度を与える要素が弱くなる傾向にあるリアル謎解きゲームにおいて、その点に注意せず、ポッと出の登場人物や神の声にメッセージを語らせれば、そのメッセージが上滑りするのは当然なのである。

 物語は当然、共感可能性によって感動を深く与えるようなものだけではない。それらの面白さの分析については本稿の示唆は直接は役立たないだろう。そもそも本稿が、こういう種類の物語の経験に対する分析への何らかの軸を提供できたかどうかも心許ない。本稿が読者の思考を触発すること、そして何より、ペルソナ5をプレイしてきた読者が「このゲーム、面白かったな」と振り返る契機となることを願う。

『行動展示』からの「脱出」

(これは、kiki(@Heavy_Braking)氏による『行動展示』という作品へ寄せる文章であり、「行動展示に関するいくつかの考察」というアドベントカレンダーへの参加記事です)

note.mu

adventar.org


はじめましての方ははじめまして、ご存知の方はどうもどうも、おやゆび(@thumb_o8ub)と申します。
大学院で人文系の学問を勉強する傍ら、AnotherVisionやモラトリズムという団体で謎解きの制作に関わっています。

さて、この記事では、謎解きゲームの古典的な状況設定に由来する「〜からの脱出」というおなじみのタイトルを踏襲し、『行動展示』からの「脱出」、ということを少し考えてみたいと思います。

『行動展示』という元作品のタイトルを聞いたとき、私がまず連想したのは『トゥルーマン・ショー』という映画でした。ご存知でしょうか?
わずかなネタバレをご容赦いただき、簡単にあらすじを説明します。
離島に住む保険会社員トゥルーマンは、幼いころ父と二人で乗っていたボートで海難事故に遭い、父を亡くし、自身も水恐怖症を患います。それゆえ彼は、離島から一歩も出ることのないまま生活を送っていました。
そんなある日彼は街で、死んだはずの父と瓜二つの老人とすれ違うのですが、直後その老人は瞬く間に何者かに連れ去られてしまいます。それ以来彼は、自分の周囲に不審を抱くようになります。
実は、トゥルーマンが生活する世界、それは太陽や月すらも照明装置の効果にすぎない巨大なセットで、周囲の人間はすべて俳優、そして彼の生活は「リアリティ番組トゥルーマン・ショー』」として24時間365日絶え間なく外側の全世界に放送されていたのでした。
その後もトゥルーマンは不審の念を強め、島からの、ひいてはこの世界からの逃走を図っていくことになるのですが、まさにこの物語は、トゥルーマンが自身の「行動」を「展示」されている状態から「脱出」しようとするもの──「行動展示」からの「脱出」──として考えられるでしょう。

この物語を下敷きに、kiki氏の『行動展示』に戻って考えてみましょう。
『行動展示』は、n+1番目の部屋の人間に対してn番目の部屋の人間の行動が展示されている、という構造になっています。ただし、3番目の部屋から4番目の「部屋」に通されるときに、事情は変化します。部屋といえる部屋は3番目までで、4番目の「部屋」=4つ目の空間とは、この世界そのものなのです。
1〜3番目の部屋を通ってきた人間は、「つねに一つ上の段階から自分の行動が監視されている」という意識を植え付けられます。1番目の部屋から2番目の部屋に移動した人間は、1番目の部屋での自身の行動が2番目の部屋の人間に監視され操作されていたことを知り、恥ずかしく思うとともに、今度は自らが監視する側として、1番目の部屋に新たに入ってきた人間を操作するでしょう。次に、3番目の部屋に移動してみると、今度は、2番目の部屋での自身の行動が3番目の部屋の人間に監視されていたことを知ります。そこでは、2番目の部屋で支配する側に立ったと思ってしまった自らの浅はかさにいっそう恥ずかしさを抱くとともに、支配する側に立ったときの自らの内なる攻撃性に動揺することでしょう。「自らの浅はかさと攻撃性が、一つ上の段階の人間に監視されていた」──この意識が、恥と動揺とともに強く植え付けられるのです。そしてそれは和らげられることのないまま、4番目の「部屋」、4つ目の空間、この世界そのものへと帰されます。帰ってきた人間は確かに、1〜3番目の部屋の人間の有り様を思い描くことができますが、まさにその能力が自らに向けられている──「一つ上の段階から自分の行動が監視されている」──ことを、考えざるを得なくなっているのです。
そして、ここが『トゥルーマン・ショー』と比較すべき点なのですが、この世界には、トゥルーマンの暮らすセットの世界に対する本当の世界のように、あるいはn番目の部屋に対するn+1番目の部屋のように、明確な「外側」がありません。それにもかかわらず、「一つ上の段階から自分の行動が監視されている」、この意識はもはや強く植え付けられてしまいました。これまでのように明確な「外側」、「一つ上の段階」という
宛先の無くなったこの意識は、混乱し、反転して、自らの「内側」で暴れ始めます。『行動展示』を体験した、いや、完了することなく体験し続ける人間は、「「誰か」から自分の行動が監視されている」、この当て所のない意識を、解決することなく自らの内面に抱えたまま、4つ目の空間であるこの世界を生きていかなければならなくなる──これが『行動展示』のはらむ危険なのです。

この「自らの内面に巣食う監視の目」というのは、かの「パノプティコン」と呼ばれる監視構造を思い起こさせます。『監獄の誕生』という著作でフランスの哲学者ミシェル・フーコーが言及したことで知られていますが、元々はイギリスの哲学者ジェレミー・ベンサムが構想したもので、簡単に説明しますと、同心円状に配置された収容者の個室が、中央の看守塔から一望できるようになっており、かつその一方で収容者からは他の収容者の個室や看守塔を見ることができない、という監視構造のことを言います。

パノプティコン - Wikipedia

(そう深く立ち入らないので、Wikipediaへのリンクで失礼します)
このようなシステムによって、収容者は、「いつ看守に見られているかわからない」という不安に怯え、次第に、本当に見られているかもわからないまま、看守の監視の目を内面化し、正しく生活するようになる、ということが見込まれました。その結果、看守側にとっては、収容者が勝手に監視の目を内面化するので、実際に全時間全方位を監視する労力を割かずとも役目を果たすことができるようになり、効率的な監視運営が可能になったのでした。

話を元に戻しましょう。『行動展示』においては、繰り返せば、トゥルーマンのように「外側」の世界に逃走することはもはやできませんし、あるいは「パノプティコン」のように、収容から解放されて元の世界に戻ることもできません。『行動展示』を体験した人間は、自分を監視する、自分を展示物として楽しむ「誰か」への恐怖に侵されたまま、この世界を生き続けなければならないのでしょうか。
いいえ、ひとつ方法が残されています。ただしそれはもはや、「外側」へ逃走するのではありません。監視の目を、それが巣食う自らの内面ごと、ひいては自らが生きるこの世界ごと消去し、すべてを無に、内も外もない状態に戻してしまえばよいのです──

死によって。

『行動展示』からの「脱出」とは、明確な「外側」がないゆえに、逃走すべき、あるいは監視の目を見出すべき先がなくなり、その目を自らの内面に抱えてしまった状態から、それでもその目から逃れるべく、内面を、そしてこの世界すらも、死によって消去してしまうことにほかなりませんでした。



……はたして、本当にそうでしょうか? ほかに方法はなかったのでしょうか?

パノプティコン」の話に戻ってみましょう。この監視構造においては、「収容者の側から看守を見ることができない」というのが当然ひとつ重要な点ですが、もうひとつ重要な点があります。それは、「収容者が互いに隔離されている」ことです。
もしこの隔離がなかったとしたらどうでしょうか。
他の収容者と言葉を交わすことができるとしたら?
もはや独りで「いつ看守に見られているかわからない」という不安と戦う必要がなくなったとしたら? 「全時間全方位を見渡し続ける看守などいない」と、収容者たちが団結することができるとしたら?
監視の目はそこまで容易く内面に根付くでしょうか。

ここで私たちは、「パノプティコン」における思考から、『行動展示』に対するひとつの策を考え出すことができます。それは、「他の体験者と言葉を交わす」ことです。
「「誰か」から自分の行動が監視されている」という不安を、他の体験者と共有すること。そして、「自分「たち」を監視する「誰か」など存在しない」と、声を大にして団結すること。
もちろんこのことによって、内面に深く植え付けられた監視の目が、容易く消え去るわけではないでしょう。それどころか、団結したはずの仲間に対してさえ、彼らから監視の目を向けられているのではないか、という新たな不安を抱いてしまうことも考えられるでしょう。
しかしそれでも、言葉を交わし続けること、団結を求め続けることによって、危うい道行きではあれども、監視の目からの逃走、『行動展示』からの「脱出」への端緒が、見えてくるのではないでしょうか。



以上が、『『行動展示』からの「脱出」』の内容です。

いかがでしたでしょうか? 私は読者の皆様の期待に応えることができたのでしょうか?
私の文章の愚かしさを、誰かが陰から監視しているのではないでしょうか?
……こう不安に思うことこそまさに、私の内面に植え付けられた監視の目によるものなのです。
そしてこうした私の筆致がこの世界において「展示」されること、これこそまさに、『行動展示』なのです。私はこのアドベントカレンダーに参加してしまった時点で、変形した『行動展示』に呑み込まれているのです。私はこの『行動展示』から「脱出」できるのでしょうか?

せめて、この妙なアドベントカレンダーという『行動展示』に巻き込まれてしまった他の皆様と、私の不安を共有し、互いをねぎらい、団結することができるのを願って──これが私なりの、『行動展示』からの「脱出」の実践です──、終わりとさせていただきます。 

ここまでお読みくださった「誰か」さま、ありがとうございました。では。

無意味の/な話

いつかある人に、こんな曲を紹介されました。

www.youtube.c

「絶望の中に、ほんのわずかに、希望が光っているようなのが良い」と、その人は言っていました。
他人が見ていないものを見ているような、不思議な人でした。

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人間は、「意味」が大好きな生き物です。

 

謎解きがちょうどいい例でしょう。ただそれ自体としてあるだけでは意味をなさない謎。それには答えという意味がある。謎解きがおもしろいのは、答えという意味を見出すからにほかなりません。
いわゆる「謎解き」に限らず、人間は昔から、ただそれ自体としてあるだけでは意味をなさない「自然」という謎に、「法則」という答え、意味を見出そうとしてきたのです。あるいは、意味をなさない事実の集積に、「歴史」という意味を見出そうとしてきたのです。

 

さて、人間が最もその「意味」を見出そうとする対象とは何でしょうか?

 

それは「生」です。

 

進撃の巨人』冒頭に、戦死した息子について兵団の人間に問う母親のシーンがあります。
母親は祈るようにしてこう言います。「息子の死は、人類の反撃の糧になったのですよね!?」
それにある兵士が赦しを請うように答えて曰く、「何の成果も!!得られませんでした!!」

 

人間は、自分の生が全くの無意味であることに耐えられない生き物なのです。
だからその母親は息子の死あるいはその生に何かの意味があったことを期待してああ問うたのだし、
最後の日に生の意味を充溢してくれる「神」なる何かが立てられ数多の宗教が発展してきたのだし、
わたしたちはこの世界のうちで「何者か」になれることを祈って将来の夢を語るのです。

 

人間など、ただ全くの偶然で、なぜか生まれて、それが尽きれば、元から何もなかったかのようになるだけなのに。

 

わたしたちは、何のために生きているのでしょうか。
わたしたちの「生」に、「意味」はあるのでしょうか。


あなたがどうか、「空っぽの空に潰される」ことのありませんよう――

om

「僕と勇者の最後の7日間」に見る私のナゾトキ観

この記事はネタバレを含みます。今後「僕と勇者の最後の7日間」に参加する予定のある方、あるいはそうでなくともネタバレを避けたい方はお引き返しください。

はいどうも。私です。おやゆびです。
機会に恵まれましたので、早速ではありますが、最近私の頭の片隅を占めていた話題について、ここで文章に起こしてみようと思います。私による私の分析なので、一切他の人を考えていないといえばそうなのですが、これを読んだ他の人が何か自らについて思考を巡らすきっかけになれば、などと願いつつ、書く次第です。私の私による私のための文章であっても、書きつけた瞬間からそれは私の手を離れて、解釈はあなたに委ねられるものなのです。

前置きはさておき。

タイトルの通り、ここでの中心的な話題は「僕と勇者の最後の7日間」(以下「僕勇」)における私の体験です。去る11/15、私は「僕勇」に参加し、見事に脱出成功を勝ち取り、それはそれは楽しい思い出となったのですが、問題はその楽しさにあります。

人々はリアル脱出ゲーム、またはそれに類する体験型謎解きゲームにおいて「世界観に入り込むことができた」という感想をしばしば口にします。しかし私はその感覚を未だに明確に抱くことができていません。それゆえ、「僕勇」に関して、「世界観に入り込むことができたから楽しかった」という理由付けは、私の中で嘘になります。

そもそも私は、「僕勇」が、徹底して世界観に入り込ませるような造りになっていたとは思えません。その理由は大謎にあります。あの大謎は、ただ色が共通していることを見抜くだけの、全く物語とは関係ない謎です。言ってしまえばデザイン謎、あるいはもっと言えばweb謎と同様のものだと考えられるでしょう。もちろんそれ以外の部分はたいへんに作り込まれていました。中盤のクエスト制度、そして最後の作戦タイム、まるでRPGの中に入り込んだようだ、という言い方も間違っていないでしょう。私はそれでも世界観に入り込んだ、という感覚はありませんでしたが。しかし世界観に入り込んだ人々も、最後の最後で、一番重要なところで裏切られるのです。あの大謎によって。

この不徹底について私は引っ掛かりを覚えられるような気がしました、が、それでも私は、「僕勇」を、一点の曇りもなく楽しいものだと感じていたのでした。なぜなのでしょうか。それは、私の中で「世界観に入り込む」という要素は全く面白さに関わる要素ではなかったからでしょう。そもそも私は「世界観に入り込む」ことすらできていないのです。理性的に思考すれば不徹底が見出されるようなものでも、私の正直な感情は、そんな不徹底など微塵も気にせず、ただ全く楽しいものだと感じていたのでした。

それでは私はいったい、「僕勇」のどこに楽しさを見出していたのでしょうか。それはおそらく、「空間の完成度から推察されるスタッフの熱意」にあるでしょう。テーブルクロスを取り去ったときに明らかになった机の作り込み。中盤に巻き起こるクエストの多様さ。一切のぎこちなさなく正確に答えていくスタッフの優れたオペレーション。あの空間には間違いなくスタッフのありったけの熱意が込められていた。その全てが、ただの作業に成り下がる可能性のある小謎群を、魅力的なものに作り変えてくれたのです。その「スタッフの熱意」に、私は、この身体を通して、感動すら覚えるほどに、楽しさを感じたのだと思います。そしてもう一点、「大謎が解けたこと」も、楽しさを高めた重要な要素でしょう。人は謎が解けたときに快楽を感じるものです(それはなぜか、というのも、記事がひとつ、いや論文がひとつ書けるくらい重要な問題かもしれないのですが、ここでは措きましょう)。

こうして、「僕勇」において感じた楽しさを分析することで、私が謎解きに何を求めているのかが浮かび上がってきました。
ひとつは謎が解けたときの快楽。これはまったく当たり前の要素ですし、「リアル」における謎解きでなくとも楽しめるものです。
重要なもうひとつの要素は、スタッフの熱意。その空間に私が身体をもって存在し行動することで知覚することができる空間の完成度、そこから推察されるスタッフの熱意です。
「僕勇」にはスタッフの熱意があった。大謎が「世界観」とは無関係であったことは熱意の評価になんら影響を与えなかった。そして謎が解けたときの快楽が加わった。これが「僕勇」に私が抱いた楽しさの理由です。


さて、こうしたことを下敷きにして、改めて問いたいことがひとつ出てきました。それは、謎解きにおいて「世界観に入り込む」とは何か、ということです。先ほども書いたとおり、私は「世界観に入り込んだ」という感覚は抱いたことがありません。しかし人々はしばしば「世界観に入り込むことができた」と言います。もしかしたらここには私と人々で意味の乖離があるのではないか、と思ったのです。
私が「世界観に入り込む」と言うとき、それは「熱意によって作り出された世界に浸る」ことを指しており、その意味に照らせば、私は謎解きの最中であっても、いたって冷静に、あくまで裏に隠れたスタッフの熱意を感じ取っているのであって、その「表」、熱意によって作り出された世界に浸っているわけではないのです。「僕勇」で言えば、私は、まるでRPGの中に入り込んだように楽しくクエストをこなした(=「世界に浸る」)わけではなく、互いに関連するように組まれたクエスト群の作り込みに感心しながらクエストをこなした(=「熱意を感じ取る」)のです。
あなたは「世界観に入り込」んだことはありますか?あるとすれば、あなたにとって「世界観に入り込む」とはどういうことですか?