「僕と勇者の最後の7日間」に見る私のナゾトキ観

この記事はネタバレを含みます。今後「僕と勇者の最後の7日間」に参加する予定のある方、あるいはそうでなくともネタバレを避けたい方はお引き返しください。

はいどうも。私です。おやゆびです。
機会に恵まれましたので、早速ではありますが、最近私の頭の片隅を占めていた話題について、ここで文章に起こしてみようと思います。私による私の分析なので、一切他の人を考えていないといえばそうなのですが、これを読んだ他の人が何か自らについて思考を巡らすきっかけになれば、などと願いつつ、書く次第です。私の私による私のための文章であっても、書きつけた瞬間からそれは私の手を離れて、解釈はあなたに委ねられるものなのです。

前置きはさておき。

タイトルの通り、ここでの中心的な話題は「僕と勇者の最後の7日間」(以下「僕勇」)における私の体験です。去る11/15、私は「僕勇」に参加し、見事に脱出成功を勝ち取り、それはそれは楽しい思い出となったのですが、問題はその楽しさにあります。

人々はリアル脱出ゲーム、またはそれに類する体験型謎解きゲームにおいて「世界観に入り込むことができた」という感想をしばしば口にします。しかし私はその感覚を未だに明確に抱くことができていません。それゆえ、「僕勇」に関して、「世界観に入り込むことができたから楽しかった」という理由付けは、私の中で嘘になります。

そもそも私は、「僕勇」が、徹底して世界観に入り込ませるような造りになっていたとは思えません。その理由は大謎にあります。あの大謎は、ただ色が共通していることを見抜くだけの、全く物語とは関係ない謎です。言ってしまえばデザイン謎、あるいはもっと言えばweb謎と同様のものだと考えられるでしょう。もちろんそれ以外の部分はたいへんに作り込まれていました。中盤のクエスト制度、そして最後の作戦タイム、まるでRPGの中に入り込んだようだ、という言い方も間違っていないでしょう。私はそれでも世界観に入り込んだ、という感覚はありませんでしたが。しかし世界観に入り込んだ人々も、最後の最後で、一番重要なところで裏切られるのです。あの大謎によって。

この不徹底について私は引っ掛かりを覚えられるような気がしました、が、それでも私は、「僕勇」を、一点の曇りもなく楽しいものだと感じていたのでした。なぜなのでしょうか。それは、私の中で「世界観に入り込む」という要素は全く面白さに関わる要素ではなかったからでしょう。そもそも私は「世界観に入り込む」ことすらできていないのです。理性的に思考すれば不徹底が見出されるようなものでも、私の正直な感情は、そんな不徹底など微塵も気にせず、ただ全く楽しいものだと感じていたのでした。

それでは私はいったい、「僕勇」のどこに楽しさを見出していたのでしょうか。それはおそらく、「空間の完成度から推察されるスタッフの熱意」にあるでしょう。テーブルクロスを取り去ったときに明らかになった机の作り込み。中盤に巻き起こるクエストの多様さ。一切のぎこちなさなく正確に答えていくスタッフの優れたオペレーション。あの空間には間違いなくスタッフのありったけの熱意が込められていた。その全てが、ただの作業に成り下がる可能性のある小謎群を、魅力的なものに作り変えてくれたのです。その「スタッフの熱意」に、私は、この身体を通して、感動すら覚えるほどに、楽しさを感じたのだと思います。そしてもう一点、「大謎が解けたこと」も、楽しさを高めた重要な要素でしょう。人は謎が解けたときに快楽を感じるものです(それはなぜか、というのも、記事がひとつ、いや論文がひとつ書けるくらい重要な問題かもしれないのですが、ここでは措きましょう)。

こうして、「僕勇」において感じた楽しさを分析することで、私が謎解きに何を求めているのかが浮かび上がってきました。
ひとつは謎が解けたときの快楽。これはまったく当たり前の要素ですし、「リアル」における謎解きでなくとも楽しめるものです。
重要なもうひとつの要素は、スタッフの熱意。その空間に私が身体をもって存在し行動することで知覚することができる空間の完成度、そこから推察されるスタッフの熱意です。
「僕勇」にはスタッフの熱意があった。大謎が「世界観」とは無関係であったことは熱意の評価になんら影響を与えなかった。そして謎が解けたときの快楽が加わった。これが「僕勇」に私が抱いた楽しさの理由です。


さて、こうしたことを下敷きにして、改めて問いたいことがひとつ出てきました。それは、謎解きにおいて「世界観に入り込む」とは何か、ということです。先ほども書いたとおり、私は「世界観に入り込んだ」という感覚は抱いたことがありません。しかし人々はしばしば「世界観に入り込むことができた」と言います。もしかしたらここには私と人々で意味の乖離があるのではないか、と思ったのです。
私が「世界観に入り込む」と言うとき、それは「熱意によって作り出された世界に浸る」ことを指しており、その意味に照らせば、私は謎解きの最中であっても、いたって冷静に、あくまで裏に隠れたスタッフの熱意を感じ取っているのであって、その「表」、熱意によって作り出された世界に浸っているわけではないのです。「僕勇」で言えば、私は、まるでRPGの中に入り込んだように楽しくクエストをこなした(=「世界に浸る」)わけではなく、互いに関連するように組まれたクエスト群の作り込みに感心しながらクエストをこなした(=「熱意を感じ取る」)のです。
あなたは「世界観に入り込」んだことはありますか?あるとすれば、あなたにとって「世界観に入り込む」とはどういうことですか?