『行動展示』からの「脱出」

(これは、kiki(@Heavy_Braking)氏による『行動展示』という作品へ寄せる文章であり、「行動展示に関するいくつかの考察」というアドベントカレンダーへの参加記事です)

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はじめましての方ははじめまして、ご存知の方はどうもどうも、おやゆび(@thumb_o8ub)と申します。
大学院で人文系の学問を勉強する傍ら、AnotherVisionやモラトリズムという団体で謎解きの制作に関わっています。

さて、この記事では、謎解きゲームの古典的な状況設定に由来する「〜からの脱出」というおなじみのタイトルを踏襲し、『行動展示』からの「脱出」、ということを少し考えてみたいと思います。

『行動展示』という元作品のタイトルを聞いたとき、私がまず連想したのは『トゥルーマン・ショー』という映画でした。ご存知でしょうか?
わずかなネタバレをご容赦いただき、簡単にあらすじを説明します。
離島に住む保険会社員トゥルーマンは、幼いころ父と二人で乗っていたボートで海難事故に遭い、父を亡くし、自身も水恐怖症を患います。それゆえ彼は、離島から一歩も出ることのないまま生活を送っていました。
そんなある日彼は街で、死んだはずの父と瓜二つの老人とすれ違うのですが、直後その老人は瞬く間に何者かに連れ去られてしまいます。それ以来彼は、自分の周囲に不審を抱くようになります。
実は、トゥルーマンが生活する世界、それは太陽や月すらも照明装置の効果にすぎない巨大なセットで、周囲の人間はすべて俳優、そして彼の生活は「リアリティ番組トゥルーマン・ショー』」として24時間365日絶え間なく外側の全世界に放送されていたのでした。
その後もトゥルーマンは不審の念を強め、島からの、ひいてはこの世界からの逃走を図っていくことになるのですが、まさにこの物語は、トゥルーマンが自身の「行動」を「展示」されている状態から「脱出」しようとするもの──「行動展示」からの「脱出」──として考えられるでしょう。

この物語を下敷きに、kiki氏の『行動展示』に戻って考えてみましょう。
『行動展示』は、n+1番目の部屋の人間に対してn番目の部屋の人間の行動が展示されている、という構造になっています。ただし、3番目の部屋から4番目の「部屋」に通されるときに、事情は変化します。部屋といえる部屋は3番目までで、4番目の「部屋」=4つ目の空間とは、この世界そのものなのです。
1〜3番目の部屋を通ってきた人間は、「つねに一つ上の段階から自分の行動が監視されている」という意識を植え付けられます。1番目の部屋から2番目の部屋に移動した人間は、1番目の部屋での自身の行動が2番目の部屋の人間に監視され操作されていたことを知り、恥ずかしく思うとともに、今度は自らが監視する側として、1番目の部屋に新たに入ってきた人間を操作するでしょう。次に、3番目の部屋に移動してみると、今度は、2番目の部屋での自身の行動が3番目の部屋の人間に監視されていたことを知ります。そこでは、2番目の部屋で支配する側に立ったと思ってしまった自らの浅はかさにいっそう恥ずかしさを抱くとともに、支配する側に立ったときの自らの内なる攻撃性に動揺することでしょう。「自らの浅はかさと攻撃性が、一つ上の段階の人間に監視されていた」──この意識が、恥と動揺とともに強く植え付けられるのです。そしてそれは和らげられることのないまま、4番目の「部屋」、4つ目の空間、この世界そのものへと帰されます。帰ってきた人間は確かに、1〜3番目の部屋の人間の有り様を思い描くことができますが、まさにその能力が自らに向けられている──「一つ上の段階から自分の行動が監視されている」──ことを、考えざるを得なくなっているのです。
そして、ここが『トゥルーマン・ショー』と比較すべき点なのですが、この世界には、トゥルーマンの暮らすセットの世界に対する本当の世界のように、あるいはn番目の部屋に対するn+1番目の部屋のように、明確な「外側」がありません。それにもかかわらず、「一つ上の段階から自分の行動が監視されている」、この意識はもはや強く植え付けられてしまいました。これまでのように明確な「外側」、「一つ上の段階」という
宛先の無くなったこの意識は、混乱し、反転して、自らの「内側」で暴れ始めます。『行動展示』を体験した、いや、完了することなく体験し続ける人間は、「「誰か」から自分の行動が監視されている」、この当て所のない意識を、解決することなく自らの内面に抱えたまま、4つ目の空間であるこの世界を生きていかなければならなくなる──これが『行動展示』のはらむ危険なのです。

この「自らの内面に巣食う監視の目」というのは、かの「パノプティコン」と呼ばれる監視構造を思い起こさせます。『監獄の誕生』という著作でフランスの哲学者ミシェル・フーコーが言及したことで知られていますが、元々はイギリスの哲学者ジェレミー・ベンサムが構想したもので、簡単に説明しますと、同心円状に配置された収容者の個室が、中央の看守塔から一望できるようになっており、かつその一方で収容者からは他の収容者の個室や看守塔を見ることができない、という監視構造のことを言います。

パノプティコン - Wikipedia

(そう深く立ち入らないので、Wikipediaへのリンクで失礼します)
このようなシステムによって、収容者は、「いつ看守に見られているかわからない」という不安に怯え、次第に、本当に見られているかもわからないまま、看守の監視の目を内面化し、正しく生活するようになる、ということが見込まれました。その結果、看守側にとっては、収容者が勝手に監視の目を内面化するので、実際に全時間全方位を監視する労力を割かずとも役目を果たすことができるようになり、効率的な監視運営が可能になったのでした。

話を元に戻しましょう。『行動展示』においては、繰り返せば、トゥルーマンのように「外側」の世界に逃走することはもはやできませんし、あるいは「パノプティコン」のように、収容から解放されて元の世界に戻ることもできません。『行動展示』を体験した人間は、自分を監視する、自分を展示物として楽しむ「誰か」への恐怖に侵されたまま、この世界を生き続けなければならないのでしょうか。
いいえ、ひとつ方法が残されています。ただしそれはもはや、「外側」へ逃走するのではありません。監視の目を、それが巣食う自らの内面ごと、ひいては自らが生きるこの世界ごと消去し、すべてを無に、内も外もない状態に戻してしまえばよいのです──

死によって。

『行動展示』からの「脱出」とは、明確な「外側」がないゆえに、逃走すべき、あるいは監視の目を見出すべき先がなくなり、その目を自らの内面に抱えてしまった状態から、それでもその目から逃れるべく、内面を、そしてこの世界すらも、死によって消去してしまうことにほかなりませんでした。



……はたして、本当にそうでしょうか? ほかに方法はなかったのでしょうか?

パノプティコン」の話に戻ってみましょう。この監視構造においては、「収容者の側から看守を見ることができない」というのが当然ひとつ重要な点ですが、もうひとつ重要な点があります。それは、「収容者が互いに隔離されている」ことです。
もしこの隔離がなかったとしたらどうでしょうか。
他の収容者と言葉を交わすことができるとしたら?
もはや独りで「いつ看守に見られているかわからない」という不安と戦う必要がなくなったとしたら? 「全時間全方位を見渡し続ける看守などいない」と、収容者たちが団結することができるとしたら?
監視の目はそこまで容易く内面に根付くでしょうか。

ここで私たちは、「パノプティコン」における思考から、『行動展示』に対するひとつの策を考え出すことができます。それは、「他の体験者と言葉を交わす」ことです。
「「誰か」から自分の行動が監視されている」という不安を、他の体験者と共有すること。そして、「自分「たち」を監視する「誰か」など存在しない」と、声を大にして団結すること。
もちろんこのことによって、内面に深く植え付けられた監視の目が、容易く消え去るわけではないでしょう。それどころか、団結したはずの仲間に対してさえ、彼らから監視の目を向けられているのではないか、という新たな不安を抱いてしまうことも考えられるでしょう。
しかしそれでも、言葉を交わし続けること、団結を求め続けることによって、危うい道行きではあれども、監視の目からの逃走、『行動展示』からの「脱出」への端緒が、見えてくるのではないでしょうか。



以上が、『『行動展示』からの「脱出」』の内容です。

いかがでしたでしょうか? 私は読者の皆様の期待に応えることができたのでしょうか?
私の文章の愚かしさを、誰かが陰から監視しているのではないでしょうか?
……こう不安に思うことこそまさに、私の内面に植え付けられた監視の目によるものなのです。
そしてこうした私の筆致がこの世界において「展示」されること、これこそまさに、『行動展示』なのです。私はこのアドベントカレンダーに参加してしまった時点で、変形した『行動展示』に呑み込まれているのです。私はこの『行動展示』から「脱出」できるのでしょうか?

せめて、この妙なアドベントカレンダーという『行動展示』に巻き込まれてしまった他の皆様と、私の不安を共有し、互いをねぎらい、団結することができるのを願って──これが私なりの、『行動展示』からの「脱出」の実践です──、終わりとさせていただきます。 

ここまでお読みくださった「誰か」さま、ありがとうございました。では。