【ネタバレ含】ペルソナ5プレイ感想──ペルソナ5における物語の「強度」

※この記事は「ペルソナ5」のネタバレを大いに含みます。一周プレイしていない方は読まないことを強く強く推奨いたします。

0. まえがき

 ペルソナ5を一周クリアした。(といっても結局プレイしてる人間の横にくっついてずっと見てるだけだったのだが)
結論から言う。めちゃくちゃ面白かった。
 特に、終わった直後のラフな反応として、物語が心に刺さった感覚があった。
 その超級のボリューム(ひとつのRPGに90時間弱かけたのはおそらくこれが初めてである)と大きな感動を前に、これはぜひとも面白さを分析するような感想文を書き残しておくべきだと思われた。

 何より物語に感動したという直観をもとに、物語について分析する文章を書こうと話を振り返ってみたのだが、話を要素に還元してしまうと結局は「仲間とともに悪人を改心させる勧善懲悪もの」とか「大人の理不尽に振り回される少年少女の反逆もの」とかいった紋切り型に収まってしまう。もちろん、物語が紋切り型の要素から成っているというのは一面では正しい。しかしあの物語が、考えてみたら紋切り型でクサい話でした、と言って済ませられはしない「強度」を自分に与えたことは確かである。あの物語に対する感動を語るには、紋切り型の要素に還元したうえで、それらが物語以外の要素とどのように絡みついて創発的に物語の強度を生み出しているかを考えなければならない、ということに思い至ったわけである。そしてそれを書き記しておくことは、感動的物語のあるリアル謎解きゲーム一般の説教臭さに悩む自分に何らかのヒントを与えてくれるだろうとも思われた。

 以下の文章は、そうした分析意識の向けかえのもとに書かれたものである。結局は要素の列挙に落ち着いてしまうのだが、直接的なストーリー以外の部分にも目を向け、それらがいかに物語に「強度」を与えたと自分が考えるか、ということが少しでも伝わるように言葉を選んだつもりである。「これは語るうえで外せないだろう」「そのりくつはおかしい」などの批判はもちろん随時受けつけているので、何かあればコメントしていただきたい。

1. 「ペルソナ5」という世界

 まずは物語がそこで展開するところの「ペルソナ5世界」について語っておく必要がある。ここでは、「ペルソナ5世界」が、

(1.1) ロケーションや、そこで動く人間への理解可能性、そして想像しやすい「イセカイ」「パレス」設定から、「我々のこの現実のどこかで密かに実現していそう」=「そこにありそう」だと我々に思わせる説得力を持っていること

(1.2) デザイン・BGM・モチーフなど一貫してスタイリッシュな提示のされ方によって我々にとって魅力的なものであること

を説明し、そのことによって我々はより深く物語を経験するのだということを主張したい。

1.1 「そこにありそう」な世界

1.1.1 ロケーション

 まずはこのゲームの舞台が現実の東京であることに留意すべきである。四軒茶屋の路地裏、渋谷のハチ公改札、銀座線から渋谷マークシティへの連絡通路、新宿、秋葉原などが、もちろん改変はされども雰囲気そのままに再現されており(特に感心したのは渋谷のハチ公改札を抜けて東横線の方に歩いていく方面にあるジューススタンドが再現され、そこで毎週日曜日に人間パラメータを上昇させる青汁が販売されていることだ)、そこでキャラクターとの様々な出会いがある。個人的には今でもハチ公改札の109へ上る階段前に「人間観察中」の祐介を探してしまうほどで、この現実の東京が再現されているということによって、我々のこの現実において「ペルソナ5世界」を重ねて見てしまうほどにあの世界に慣れ親しむことができるのである。

1.1.2 人間

 この分析にとって欠かせない最大級の要素として、数多登場するキャラクターたちの存在がある。彼らはただの記号として存在する以上に、皆それぞれに個性を持ち、それぞれに現実にあり得る事情を抱え(ているように設計され)、それゆえに我々が理解しやすい、現実味のある人間となっている。もちろんキャラクターの立場によってその事情は異なるので、以下では一定の分類のもとにキャラクターたちを見ていくことにしたい。

  • a. 怪盗団メンバー

 彼らは理不尽な大人たちに振り回され、その中で反逆の意志を固め、ペルソナの力を目覚めさせる。ややもすれば飽きてクサい展開であるが、そこは各キャラの外見上の個性、出会い方のバリエーション、覚醒シーンのカッコよさ、そして現実の我々が理不尽に振り回された経験からくる彼らへの共感で、一回一回がアツいシーンとなっているだろう。そして怪盗団加入後は一員として他のメンバーと様々なやりとりがなされるわけだが、声優の演技・LINE上でのテキストのクセ・細かい言動によって、各キャラに対する愛着がしっかりと深められる(以上の点について、春ちゃんはモルガナ離反イベントの過程で出会うことで出会いの個性が演出されていたりするが、加入後もあまりキャラとして個性を立てる機会に恵まれていないような感じがあり、かわいそうである。社長令嬢キャラをブン回すところとか見てみたかった気もする)

 これは怪盗団メンバーに限らない話だが、各キャラに対して理解可能性と愛着を深める要素が担保されていることが、このゲームにおいて、そして物語の経験において決定的に重要なことだと思われるし、なかでも怪盗団メンバーが共感と愛着を抱きやすい魅力的なキャラクターに仕上げられていることが何より重要なことである。

  • b. しつこいほどのコープたち

 いくつかの関係を除き、コープたちとの人間関係を深めるためには、彼らが抱えている問題を解決する必要が出てくる(プレイ中は「メメントスチャレンジ」と呼んでいた)。彼らは怪盗団メンバーとは違って自身が直接的に反逆の意志を示すわけではないが、そのぶん彼らへの共感を深める要素として、彼らが皆それぞれ「現代社会にあり得る理不尽」に巻き込まれていることが挙げられる。たとえば「医療ミスをなすりつけられる」・「新興宗教団体に巻き込まれる」・「親がモンスターペアレント」・「本意ではないアイドル的な売り出し方をされる」などなど。ひとつひとつは単に用意された設定という感じがあるが、ここまでの人数分もはやしつこいほど、政治家崩れからゲームキッズまで個性豊かなキャラとエピソードが用意され、そして皆が皆、問題解決後に怪盗団の協力者になるという仲間を増やすアツさを提供してくれるとなれば、彼らに愛着が湧きもするだろう。

 また、うち数人は主人公の彼女にできるという要素にも触れておくべきだろう。ありふれたギャルゲでも個性があって見た目が可愛ければなんか嬉しいのである(その点で言うと一子は年上サバサバ系のポジションを武見先生に先に握られておりやや不憫である。そもそも自分の好みではなかった

あとこの場を借りて、貞代先生、毎日毎日自宅に呼んでコーヒーを淹れるタダ働きをさせて本当に申し訳ありませんでした。

  • c. 同情できそうでできない、少し同情できる敵

 このゲームに欠かせないのが、パレスを持つ敵たちの存在だが、特筆すべきなのは、彼らにもごくわずかに同情の余地が残されていることである。たとえば鴨志田ならば「自分で築き上げた地位を利用して何が悪いのか」「人々が勝手に俺に期待して俺を祭り上げてきたんだ」という言い訳、斑目ならば「芸術の価値などアートワールドの中で権力によって決められる不確かなものだ」という言い訳、獅童においてすらも「この沈みゆく国を支えられるのは自分しかいない」という信念など、敵たちには、純粋に悪と言って切り捨てられない、かといってそれを言い訳にすることは許されない、わずかな引っ掛かりが残されている。そこに彼らへの理解可能性と、彼らが起こした罪の現実感がある。

  • d. 無思考の大衆

 そして最後の敵は、怪盗団のように世間に波風を立てる者を無視し、自分の頭で考えることをしない「大衆」であった。そこから生まれた神と決戦に至るという点に目をつぶれば、無思考な大衆、そして無思考で済ませようとする一人ひとりの心の甘えが最後の敵であるというのは、現代社会にあり得る闇を描いてきたこのゲームの最後を飾るにまったくふさわしいものであるだろう。極めつけにこの敵を設定するのは、「ペルソナ5世界」とその物語に強く現実感を与えている。

1.2 スタイリッシュな提示

1.2.1 デザイン・UI・UX

 画面がいちいちカッコいい。赤を基調とし、不揃いな文字がまさに怪盗的なダークなカッコよさを引き立てる基本デザインがすでに独特でカッコいいのである。デザインについてはあまり多くを語れないが、パッと見て何のゲームかがわかる画面が作れているというのが、デザインの固有性と強さ、世界観への寄与を物語っているだろう。

 また、各ロード場面においてもオシャレな演出によってストレスを軽減するUX上の工夫がなされている点も触れておくべきである。たとえば、設定画面で項目を選択して下の階層に移るときに主人公の一枚絵が動くことや、同様に薬購入のときに武見先生の絵にモーションがあること、日付が変わるときに日付にナイフが突き立てられること、総攻撃で敵全滅後の各キャラ固有一枚絵、戦闘終了後主人公が走り出す、などなど。このような見た目上のディテールが、ストレスを軽減するとともに、ゲームプレイの魅力的な固有性を形作っている。

1.2.2 BGM

 BGMも当然、固有の世界をなす重要な一要素である。雰囲気が伝わるように、代表的な数曲を挙げておきたいと思う。
 まずは日常でよく聴くBGMから。

  • Beneath The Mask


[Persona 5 OST] 29 - Beneath the Mask


落ち着いてシブいベース・ドラムの上に、後ろで鳴っているエレキピアノがオシャレに響き、そしてペルソナ5内で一貫したこのボーカルが薄暗く、温かく、また力強さを感じさせる雰囲気を醸し出しているだろう。

  • Tokyo Daylight


[Persona 5] 37 - Tokyo Daylight

こちらも日常でよく聴くBGMであるが、しっとりとした上の曲とは異なり、コーラスとギターが軽快さを引き立てている。

 次は戦闘BGM。

  • Last Surprise


Persona 5 - Last Surprise OFFICIAL Lyrics

こんなオシャレな曲が通常戦闘BGMとして成立しているのがペルソナ5の固有性を最も物語っているのではないだろうか。怪盗団の鮮やかな犯行を思わせる、テーマにマッチした一曲である。

  • Blooming Villain


Persona 5 OST - Blooming Villain [Extended]

ボス戦。もちろんオシャレな曲だけではなく、しっかりとカッコいい曲も用意されている。派手さはないが、力強いギターとベース、王道なコード進行がボス戦にふさわしいアツさを感じさせる。どこかで読んだ受け売りだが、曲の1ループの展開が「会敵→戦略立て→交戦」というペルソナ5の戦闘システムを象徴しているという話がある。

 そして最後に紹介するのは、最も「ペルソナ5世界」を象徴していると自分が思う一曲である。

  • Life Will Change


Life Will Change ( With Lyrics ) - Persona 5 OST

プレイ済の各位にはおなじみ、予告状を出した後のパレス内で流れるBGM。怪盗団の意志の力強さ、「怪盗」というテーマから想像される鮮やかさ、カッコよさ、オシャレさがこの一曲に詰まっているといっても過言ではないだろう。

 余談だが、ゲーム中聴き慣れたBGMでも、キャラボイスや効果音などを抜きにして単体で集中して聴くと曲自体の良さを感じられるのでおすすめである。特にイヤホンで聴くことで低音のカッコよさが際立って聞こえるようになるだろう。

1.2.3 モチーフ
  • 怪盗
  • 神話(ヤルダバオトは言わずもがな、各ペルソナは神話や伝承を元ネタとしている)
  • 七つの大罪(正確には対応していないのだが、7つのパレスにはそれぞれ大罪の名前が冠されている(攻略時のトロフィー参照)。またヤルダバオト七つの大罪をモチーフにした特殊攻撃を仕掛けてくる)
  • タロット(各ペルソナ・各コープにアルカナというタロットカードの属性が割り振られている)
  • トランプ(ジョーカーというコードネームや、トランプではハートが表象する「聖杯」(授業中の質問コーナーで登場する知識である)がラスボスの第一形態である)

といった「中二病」的モチーフや、

といった学問的モチーフ(これらも言ってみれば「中二」的センスを持つ学問領域かもしれない)
がうまく結び合わされ、あのスタイリッシュな世界観の構築に寄与している。

2. ゲームという媒体における報酬としての物語

 物語の経験を語るに際して避けては通れないのが、その媒体である。この文章を書いているいまちょうどペルソナ5のアニメが毎週放送中なのだが、同じ物語をなぞっているはずなのにどうにもしっくりこない、盛り上がらないという感覚がある。そこでここでは、アニメを比較項として置くことで、「ゲームで物語を経験すること」の特徴を考えることにしたい。先取りして言えば、アニメとの違いとして際立つのは、操作の作業量と引き換えに発生する進捗への達成感である。そうした進捗報酬として、達成感とともに物語を受け取るからこそ、ゲームにおける物語は心に深く残るのではないか。

2.1 ゲームにおける作業

 深い批評を必要としないならばただ観るだけで、時間もゲームに比べればそれほど要しないアニメと違って、ゲームにはそもそも「ボタン操作」という作業が基本に存在する。その上に、特にペルソナ5においては、日常には一日一日何をして過ごすかという自己決定、場所の選択、主人公の移動、会話の返答の決定といった労力が、パレスにおいては諸アクションを含む主人公の移動、ザコ敵との煩わしくもある戦闘、仕掛けの攻略、第何形態まであるんだよと思わせるボス戦といった労力が必要となる。個人的におそらくアニメを観ていて感じたコレジャナイ感は、あれほど苦労した様々な攻略(たとえば祐介の説得やパレス攻略)がかなり短い時間で解決してしまったことによるあっけなさに由来するのではないかと考えられる。

2.2 報酬としての物語

 作業の先には、たとえば人間パラメータの上昇であったり、コープイベントであったりといった進捗があり、そしてその最大の報酬として物語の進行がある。そこに至るまでには、長大なパレス、多すぎるザコ敵との戦闘、やたら強いしバフ/デバフをサボると死ぬボス戦といった労力、そしてそもそも膨大な時間がかかっているのであり、そうして受け取る報酬としての物語は、達成感とともに経験される(というか、そうしないとやっていられないと脳が補正をかけている部分もあるのだろう)。もちろんそこで進行する話が面白くなければ元も子もなく、「これだけ苦労してこれかよ」と逆効果を生むだろうが、このゲームのように物語自体に面白さがあれば、一定のプラス効果をもたらすだろう(作業量とそれが生む達成感のバランスというのは人それぞれだが、個人的にはパレス攻略部分の作業量が達成感に見合っていない感覚があり、もう少し作業感を減らしてもよかったのではないかと思う。あと、獅童は何回変身を残しているんだやめろ

補論:コンピュータRPGとの媒体の差異から考えるリアル謎解きゲーム

 この文章を書く動機のひとつに、このゲームの物語経験について分析することで、リアル謎解きゲームに対する知見を深めるということがあったので、ここではついでに、コンピュータRPGとリアル謎解きゲームの媒体としての差異についても触れておきたい。

 まず、コンピュータRPGはアートワークによって一貫した想像の世界を創りやすいし、そこにゲームとして独特のシステム、独特のアクションを設定することで、その世界のまとまりがプレイしながらにして強化される。

 一方でリアル謎解きゲームはその想像の世界を現実にあるもので再現しなければならず、世界を創ることはコストもかかるし、クオリティもどこかで想像の世界から劣化してしまうだろう。しかしだからこそ、リアルイベントにおいてはその再現の努力が評価対象となる。また、想像の世界の再現だとしても、その世界が「現実に」再現されることが重要である。現実に我々の身体をもってその再現世界に我々が存在することは、ライブ感をもたらし、テレビゲーム越しには得難い熱狂を喚起するだろう。

 コンピュータRPGは一つの別世界を完成させられるが我々はそれに操作を通して干渉することしかできない。リアル謎解きゲームは別世界を再現することしかできないが我々はその再現世界に実際に存在することができる。こうした差異を一旦まとめることができる。

 こうした差異のうえで、特に感動的物語のあるリアル謎解きゲームについて考えよう。このゲームは通常ゲーム時間が60分以下で、あまり設定を詰め込むと時間内に消化できないというさらなる制約により、原作のあるコラボ謎解きでない限り細部の定まった別世界を完成させきることはより難しくなるし、展開するエピソードも単純なものとなり、1章で述べた「ありそうな世界を形作る」方向、あるいは3章でこれから述べる「物語そのものを面白くする」方向での物語経験の深さの強化が弱くなってしまう。こと「自分がその物語の中に入ってしまったような体験」を志向するリアル謎解きゲームにおいては、「そこにありそう」で参与したくなる世界を形作ることにまつわる難しさは致命的に働きうる。こうした困難に対処する仕掛けを施さず、リアルイベントのライブ感による熱狂のみに物語経験の深さの強化を任せ、登場人物あるいは神の声に何らかのメッセージを直接語らせれば、それがまともな強度を持たないまま説教臭くなってしまうことは必定である。

 ではこうした困難にもかかわらず、リアル謎解きゲームにおいて、何らかのメッセージを伝えられるほどに物語経験に深さを持たせたいとすれば、どのような対処手段が考えられるだろうか。

 まず、プレイヤーが追い込まれる苦境に、乗り越えたいと思わせる要素を設定することが考えられる。そのような乗り越えたい苦境が設定されているからこそ、乗り越えたときの感動が物語経験の強度を生む。その手段としては、ひとつには、ともに乗り越えたいと共感できる登場人物とその人物への愛着を生む仕掛けを設定するということが考えられる。あるいは、過去に例のあった変化球的な手段だが、その苦境は自分で招いてしまったものであることが明らかになるという物語構造を作り、反省とともに乗り越えたさを生み出すということも考えられる。

 また、物語自体の構造を謎解きに絡めて面白くすることも考えられる。物語構造のそもそもの面白さが、物語経験の強度を生むのである。

 そして最後に、メッセージ性を持たせたいとしたら、それを語るのは神の声ではなく、愛着と共感を持たせた登場人物であるべきであり、もっと言えば、誰かの口からということもなく、物語そのものがあるメッセージを示唆しているべきである。

 このあたりの議論は、「リアル謎解きゲーム」の中でも議論対象の範囲を非常に狭くとったうえにかなり雑駁なものであり、そもそもペルソナ5における物語を分析するという本論の趣旨から大きく外れてきているので、別の機会にさらに考えることにしたい。

3. 物語における工夫

 ここまで、

  • 1. 「そこにありそう」で魅力的な「ペルソナ5世界」
  • 2. ゲームという媒体の特徴

と、物語経験の強度を深める要素について述べてきた。しかし2.2の最後の方でも述べたとおり、物語そのものが面白くなければ元も子もない。実際このゲームの物語も、「ただ反逆が繰り返され、そのスケールが大きくなっていく」というものなら、アツさはあれど単調なもので終わっていただろう。しかしペルソナ5には、そのような単調さを回避する工夫が施されていたと思われる。その工夫について、時系列順に触れていきたい。

3.1 佐倉双葉というキャラクター

 これは自分が双葉推しだから書く節である鴨志田攻略においては、鴨志田は学校内でもその権力をふるい主人公たちに圧力をかけていた。斑目攻略においては、祐介に斑目が悪だということを信じさせるのに苦労した。最初の二人においては当人たちが巨悪であることを感じさせるだけの主人公たち側の苦境があったが、三人目の敵、金城の攻略は二人に比べて単調であったと思われる。そして双葉を一旦飛ばしてその次は奥村社長であるが、彼においてもまた、被害に遭っているのは新たに加入したての春だけであって、主人公たちに、最初二人のときのような苦境が強いられることはなく、攻略においてはやや単調であった印象が否めない。つまり、双葉のエピソードが無ければ、やや盛り上がりに欠ける二人の攻略が連続していたのである。だからこそ、双葉のエピソードによる単調さの回避は物語全体にとって大きな意味を持つものであると言える。

 では、双葉のエピソードがいかに物語に動きを与えたのか。ひとつには、これまでは主人公が周囲の悪に反逆するだけであり、ここでもメジエドをどう倒すかという展開が来ると見せかけておいて、実際に攻略するのはなんと佐倉家に住む人間であり、それも悪人を改心させるという話ではないという驚きのイレギュラーな展開であること。さらには、一色若葉、認知訶学といった物語上の重要な要素が明かされる盛り上がりの局面であること。この二つを満たす動きのある展開を、双葉というキャラクターを設定して、「惣治郎以外誰もいないはずの佐倉家に誰かいる」という真夏にふさわしい怪談仕立ての導入とともにここに配置するのは、ぜひとも触れておかなければならない物語の工夫である。

 そして、後の物語にとっても双葉の存在とこのエピソードが役立っていることがさらなる重要な点である。すなわち、惣治郎の過去、主人公を引き取ったこと、コープイベントにおける家族愛の話などが双葉の存在によって理由づけられ自然なものとなっているし、また、このエピソードが、後の明智を騙す展開の際に「パレス内に本人が入っても短時間なら問題がない」ことの根拠となっているのである。

 このように、佐倉双葉というキャラクターの存在は、ペルソナ5の物語に対して様々な貢献を果たしており、ひとつの「発明」と言えるだろう。

3.2 明智を騙す展開における伏線回収

 言わずもがな、ペルソナ5における最大の物語の工夫はこの部分だろう。ここを物語のクライマックスにするために、わざわざ逮捕後の尋問室からの回想という形式をとらせ(そのせいで冴さんには「どうなのおばさん」という汚名がつくことになったわけである(かわいそうだが、それにしても強制で尋問室の場面が挿入される回数は多すぎた気がする))主人公の記憶に穴を開け、「明智にはモルガナの声が聞こえている」という伏線を張り、「パレスから離れた場所は現実そっくりである(カモシダパレス侵入時)」、「パレス内の人間は本物の人間と区別がつかない(ニイジマパレスにおける客たち。あるいはカモシダパレスにおける鴨志田の愛人としての杏もその伏線か)」、「パレス内に本人が入っても短時間なら問題がない(フタバパレスにおける双葉)」など作戦の根拠をそれまでのパレス攻略に入れ込む、という大がかりな仕掛けが施されているわけである。主人公の帰還後、部屋にいる双葉に話しかけると作戦に関するさらなる説明が聞けるのもこだわりを感じる。

3.3 シドウパレス以後の展開

 それまでは特定個人を改心させる展開の連続だったのが、なんとラスボスは「無思考な大衆」、そして「その大衆ゆえに歪まされた偽の神」と、一気にスケールが大きくなるのだが、しかしその展開は、(神は置いておくにしても)まさにいま我々の現実に広がる大衆の倦怠感とリンクしており、現実感をもって無理なく理解できるし、それがラスボスだということに納得もいってしまう(まぁ日本国民の衆愚性が世界の破滅をもたらすとなれば外国的にはたまったものではないなとは思った。この物語の根幹にはほぼ外国が関わってこないが、変にそこに言及して話をより壮大にしても仕方ないだろう)。しかもこの大衆の敵性が「怪盗チャンネル」のアンケート欄で可視化され、「誰もその存在を信じなくなったとき人々の認知世界から怪盗団が消滅する」というラスト付近の展開は、SNS時代の時流をも活かした非常にうまい演出である。この演出のうまさとともに、「説得力のあるスケールの飛躍」が物語の最後に配置されているのは触れておくべき面白さであるといえるだろう。

3.4 最後のベルベットルーム

 主人公をめぐる「ゲーム」がネタばらしされるクライマックスの場面(終盤ずっとクライマックスみたいなものなのだが)だが、ここでも二つ面白いポイントが指摘できる。ひとつは「カロリーヌとジュスティーヌのギロチン合体」である。「ギロチンここでそう使うのか」という驚きと伏線回収的な面白さがある。もうひとつは、もうこれだけでもこのゲームを買う理由になるほどの超級のトリックだと思うのだが、「声優の死すら利用して、偽イゴールがラスボスであるという設定を作ったこと」である。ペルソナ4までイゴール役を務めた田の中勇氏が2010年に亡くなったことを受け、ペルソナ5ではイゴール役が交代した……と言われれば誰だって自然な流れだと思うだろう。ところが、これこそがペルソナ5における最大級のトリックの現場だったのである。つくづく見事だと思う。

4. まとめ

 これまで、ペルソナ5において、ややもすればクサい物語にいかに「強度」が与えられ、その経験における感動をもたらしたかについて長々と述べてきた。軽くパラフレーズしつつまとめて、本稿の結びとしたい。

 ペルソナ5における物語の「強度」とは、

  • 1. テーマ的にもロケーション的にも現代日本社会をうまく物語に落とし込み、あらゆる人間に理解可能性のある設定を与えて、「そこにありそう」な世界を徹底的に形作り、かつそれを独特のデザインやBGMによって魅力的に提示することで、プレイヤーの物語への共感可能性を非常に高めていること
  • 2. ゲームという媒体ゆえに自然発生的に、その膨大な作業量と引き換えに、物語の進行を達成感とともに報酬として受け取るという構造が成立していること
  • 3. 物語自体において叙述トリック・伏線回収・クライマックスポイントを随所に設けるという工夫によって、単調な反逆ものに陥るのを回避していること

の三点からなる、というのが本稿の主張である。

 また、当初の動機の一部であった「感動的物語のあるリアル謎解きゲーム一般の説教臭さ」については、補論にて述べたとおりである。媒体としての性質と時間/設定の量の制約により、共感可能性と物語自体の面白さという、物語に強度を与える要素が弱くなる傾向にあるリアル謎解きゲームにおいて、その点に注意せず、ポッと出の登場人物や神の声にメッセージを語らせれば、そのメッセージが上滑りするのは当然なのである。

 物語は当然、共感可能性によって感動を深く与えるようなものだけではない。それらの面白さの分析については本稿の示唆は直接は役立たないだろう。そもそも本稿が、こういう種類の物語の経験に対する分析への何らかの軸を提供できたかどうかも心許ない。本稿が読者の思考を触発すること、そして何より、ペルソナ5をプレイしてきた読者が「このゲーム、面白かったな」と振り返る契機となることを願う。